イエス様がパンと魚を感謝の祈りを捧げて分け与えたことは、私たちが持っているすべてが神から来ているという事実を思い起こさせます。私たちの生活のすべてに感謝の心を持たなければなりません。
30. さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。 31. するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 32. そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。 33. ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先…
今日のメッセージは、五つのパンと二匹の魚の奇跡を通して、私たちが受けたすべてが神の恵みであることを認識し、感謝する生活を送ることの重要性を伝えています。イエス様は幼い子供のパンと魚を手に持ち、天を仰いで感謝の祈りを捧げました。これは、私たちが持っているすべてが神から来ているという事実を忘れず、その恵みに感謝し、分かち合う生活を送るべきであることを思い出させてくれます。私たちの日常の中でも神の供給を忘れず、感謝の心で生きていけることを願っています。
- Mark 6:30-44 30. さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。 31. するとイエスは彼らに言われた、「さあ、あなたがたは、人を避けて寂しい所へ行って、しばらく休むがよい」。それは、出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。 32. そこで彼らは人を避け、舟に乗って寂しい所へ行った。 33. ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。 34. イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。 35. ところが、はや時もおそくなったので、弟子たちはイエスのもとにきて言った、「ここは寂しい所でもあり、もう時もおそくなりました。 36. みんなを解散させ、めいめいで何か食べる物を買いに、まわりの部落や村々へ行かせてください」。 37. イエスは答えて言われた、「あなたがたの手で食物をやりなさい」。弟子たちは言った、「わたしたちが二百デナリものパンを買ってきて、みんなに食べさせるのですか」。 38. するとイエスは言われた、「パンは幾つあるか。見てきなさい」。彼らは確かめてきて、「五つあります。それに魚が二ひき」と言った。 39. そこでイエスは、みんなを組々に分けて、青草の上にすわらせるように命じられた。 40. 人々は、あるいは百人ずつ、あるいは五十人ずつ、列をつくってすわった。 41. それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。 42. みんなの者は食べて満腹した。 43. そこで、パンくずや魚の残りを集めると、十二のかごにいっぱいになった。 44. パンを食べた者は男五千人であった。
- Mark 6:30 30. さて、使徒たちはイエスのもとに集まってきて、自分たちがしたことや教えたことを、みな報告した。
- Mark 6:41 41. それから、イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福し、パンをさき、弟子たちにわたして配らせ、また、二ひきの魚もみんなにお分けになった。
- Psalms 104 1. わがたましいよ、主をほめよ。わが神、主よ、あなたはいとも大いにして誉と威厳とを着、 2. 光を衣のようにまとい、天を幕のように張り、 3. 水の上におのが高殿のうつばりをおき、雲をおのれのいくさ車とし、風の翼に乗りあるき、 4. 風をおのれの使者とし、火と炎をおのれのしもべとされる。 5. あなたは地をその基の上にすえて、とこしえに動くことのないようにされた。 6. あなたはこれを衣でおおうように大水でおおわれた。水はたたえて山々の上を越えた。 7. あなたのとがめによって水は退き、あなたの雷の声によって水は逃げ去った。 8. 山は立ちあがり、谷はあなたが定められた所に沈んだ。 9. あなたは水に境を定めて、これを越えさせず、再び地をおおうことのないようにされた。 10. あなたは泉を谷にわき出させ、それを山々の間に流れさせ、 11. 野のもろもろの獣に飲ませられる。野のろばもそのかわきをいやす。 12. 空の鳥もそのほとりに住み、こずえの間にさえずり歌う。 13. あなたはその高殿からもろもろの山に水を注がれる。地はあなたのみわざの実をもって満たされる。 14. あなたは家畜のために草をはえさせ、また人のためにその栽培する植物を与えて、地から食物を出させられる。 15. すなわち人の心を喜ばすぶどう酒、その顔をつややかにする油、人の心を強くするパンなどである。 16. 主の木と、主がお植えになったレバノンの香柏とは豊かに潤され、 17. 鳥はその中に巣をつくり、こうのとりはもみの木をそのすまいとする。 18. 高き山はやぎのすまい、岩は岩だぬきの隠れる所である。 19. あなたは月を造って季節を定められた。日はその入る時を知っている。 20. あなたは暗やみを造って夜とされた。その時、林の獣は皆忍び出る。 21. 若きししはほえてえさを求め、神に食物を求める。 22. 日が出ると退いて、その穴に寝る。 23. 人は出てわざにつき、その勤労は夕べに及ぶ。 24. 主よ、あなたのみわざはいかに多いことであろう。あなたはこれらをみな知恵をもって造られた。地はあなたの造られたもので満ちている。 25. かしこに大いなる広い海がある。その中に無数のもの、大小の生き物が満ちている。 26. そこに舟が走り、あなたが造られたレビヤタンはその中に戯れる。 27. 彼らは皆あなたが時にしたがって食物をお与えになるのを期待している。 28. あなたがお与えになると、彼らはそれを集める。あなたが手を開かれると、彼らは良い物で満たされる。 29. あなたがみ顔を隠されると、彼らはあわてふためく。あなたが彼らの息を取り去られると、彼らは死んでちりに帰る。 30. あなたが霊を送られると、彼らは造られる。あなたは地のおもてを新たにされる。 31. どうか、主の栄光がとこしえにあるように。主がそのみわざを喜ばれるように。 32. 主が地を見られると、地は震い、山に触れられると、煙をいだす。 33. わたしは生きるかぎり、主にむかって歌い、ながらえる間はわが神をほめ歌おう。 34. どうか、わたしの思いが主に喜ばれるように。わたしは主によって喜ぶ。 35. どうか、罪びとが地から断ち滅ぼされ、悪しき者が、もはや、いなくなるように。わがたましいよ、主をほめよ。主をほめたたえよ。
- Psalms 145 1. わが神、王よ、わたしはあなたをあがめ、世々かぎりなくみ名をほめまつります。 2. わたしは日ごとにあなたをほめ、世々かぎりなくみ名をほめたたえます。 3. 主は大いなる神で、大いにほめたたえらるべきです。その大いなることは測り知ることができません。 4. この代はかの代にむかってあなたのみわざをほめたたえ、あなたの大能のはたらきを宣べ伝えるでしょう。 5. わたしはあなたの威厳の光栄ある輝きと、あなたのくすしきみわざとを深く思います。 6. 人々はあなたの恐るべきはたらきの勢いを語り、わたしはあなたの大いなることを宣べ伝えます。 7. 彼らはあなたの豊かな恵みの思い出を言いあらわし、あなたの義を喜び歌うでしょう。 8. 主は恵みふかく、あわれみに満ち、怒ることおそく、いつくしみ豊かです。 9. 主はすべてのものに恵みがあり、そのあわれみはすべてのみわざの上にあります。 10. 主よ、あなたのすべてのみわざはあなたに感謝し、あなたの聖徒はあなたをほめまつるでしょう。 11. 彼らはみ国の栄光を語り、あなたのみ力を宣べ、 12. あなたの大能のはたらきと、み国の光栄ある輝きとを人の子に知らせるでしょう。 13. あなたの国はとこしえの国です。あなたのまつりごとはよろずよに絶えることはありません。 14. 主はすべて倒れんとする者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます。 15. よろずのものの目はあなたを待ち望んでいます。あなたは時にしたがって彼らに食物を与えられます。 16. あなたはみ手を開いて、すべての生けるものの願いを飽かせられます。 17. 主はそのすべての道に正しく、そのすべてのみわざに恵みふかく、 18. すべて主を呼ぶ者、誠をもって主を呼ぶ者に主は近いのです。 19. 主はおのれを恐れる者の願いを満たし、またその叫びを聞いてこれを救われます。 20. 主はおのれを愛する者をすべて守られるが、悪しき者をことごとく滅ぼされます。 21. わが口は主の誉を語り、すべての肉なる者は世々かぎりなくその聖なるみ名をほめまつるでしょう。
- 1 Chronicles 29 1. ダビデ王はまた全会衆に言った、「わが子ソロモンは神がただひとりを選ばれた者であるが、まだ若くて経験がなく、この事業は大きい。この宮は人のためではなく、主なる神のためだからである。 2. そこでわたしは力をつくして神の宮のために備えた。すなわち金の物を造るために金、銀の物のために銀、青銅の物のために青銅、鉄の物のために鉄、木の物のために木を備えた。その他縞めのう、はめ石、アンチモニイ、色のついた石、さまざまの宝石、大理石などおびただしい。 3. なおわたしはわが神の宮に熱心なるがゆえに、聖なる家のために備えたすべての物に加えて、わたしの持っている金銀の財宝をわが神の宮にささげる。 4. すなわちオフルの金三千タラント、精銀七千タラントをそのもろもろの建物の壁をおおうためにささげる。 5. 金は金の物のために、銀は銀の物のために、すべて工人によって造られるもののために用いる。だれかきょう、主にその身をささげる者のように喜んでささげ物をするだろうか」。 6. そこで氏族の長たち、イスラエルの部族のつかさたち、千人の長、百人の長および王の工事をつかさどる者たちは喜んでささげ物をした。 7. こうして彼らは神の宮の務のために金五千タラント一万ダリク、銀一万タラント、青銅一万八千タラント、鉄十万タラントをささげた。 8. 宝石を持っている者はそれをゲルションびとエヒエルの手によって神の宮の倉に納めた。 9. 彼らがこのように真心からみずから進んで主にささげたので、民はそのみずから進んでささげたのを喜んだ。ダビデ王もまた大いに喜んだ。 10. そこでダビデは全会衆の前で主をほめたたえた。ダビデは言った、「われわれの先祖イスラエルの神、主よ、あなたはとこしえにほむべきかたです。 11. 主よ、大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、地にあるものも皆あなたのものです。主よ、国もまたあなたのものです。あなたは万有のかしらとして、あがめられます。 12. 富と誉とはあなたから出ます。あなたは万有をつかさどられます。あなたの手には勢いと力があります。あなたの手はすべてのものを大いならしめ、強くされます。 13. われわれの神よ、われわれは、いま、あなたに感謝し、あなたの光栄ある名をたたえます。 14. しかしわれわれがこのように喜んでささげることができても、わたしは何者でしょう。わたしの民は何でしょう。すべての物はあなたから出ます。われわれはあなたから受けて、あなたにささげたのです。 15. われわれはあなたの前ではすべての先祖たちのように、旅びとです、寄留者です。われわれの世にある日は影のようで、長くとどまることはできません。 16. われわれの神、主よ、あなたの聖なる名のために、あなたに家を建てようとしてわれわれが備えたこの多くの物は皆あなたの手から出たもの、また皆あなたのものです。 17. わが神よ、あなたは心をためし、また正直を喜ばれることを、わたしは知っています。わたしは正しい心で、このすべての物を喜んでささげました。今わたしはまた、ここにおるあなたの民が喜んで、みずから進んであなたにささげ物をするのを見ました。 18. われわれの先祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたの民の心にこの意志と精神とをいつまでも保たせ、その心をあなたに向けさせてください。 19. またわが子ソロモンに心をつくしてあなたの命令と、あなたのあかしと、あなたのさだめとを守らせて、これをことごとく行わせ、わたしが備えをした宮を建てさせてください」。 20. そしてダビデが全会衆にむかって、「あなたがたの神、主をほめたたえよ」と言ったので、全会衆は先祖たちの神、主をほめたたえ、伏して主を拝し、王に敬礼した。 21. そしてその翌日彼らは全イスラエルのために主に犠牲をささげた。すなわち燔祭として雄牛一千、雄羊一千、小羊一千をその灌祭と共に主にささげ、おびただしい犠牲をささげた。 22. そしてその日、彼らは大いなる喜びをもって主の前に食い飲みした。彼らはさらに改めてダビデの子ソロモンを王となし、これに油を注いで主の君となし、またザドクを祭司とした。 23. こうしてソロモンはその父ダビデに代り、王として主の位に座した。彼は栄え、イスラエルは皆彼に従った。 24. またすべてのつかさたち、勇士たち、およびダビデ王の王子たちも皆ソロモン王に忠誠を誓った。 25. 主は全イスラエルの目の前でソロモンを非常に大いならしめ、彼より前のイスラエルのどの王も得たことのない王威を彼に与えられた。 26. このようにエッサイの子ダビデは全イスラエルを治めた。 27. 彼がイスラエルを治めた期間は四十年であった。すなわちヘブロンで七年世を治め、エルサレムで三十三年世を治めた。 28. 彼は高齢に達し、年も富も誉も満ち足りて死んだ。その子ソロモンが彼に代って王となった。 29. ダビデ王の始終の行為は、先見者サムエルの書、預言者ナタンの書および先見者ガドの書にしるされている。 30. そのうちには彼のすべての政と、その力および彼とイスラエルと他のすべての国々に臨んだ事どもをしるしている。
- 출애굽기 16장
- Numbers 11 1. さて、民は災難に会っている人のように、主の耳につぶやいた。主はこれを聞いて怒りを発せられ、主の火が彼らのうちに燃えあがって、宿営の端を焼いた。 2. そこで民はモーセにむかって叫んだ。モーセが主に祈ったので、その火はしずまった。 3. 主の火が彼らのうちに燃えあがったことによって、その所の名はタベラと呼ばれた。 4. また彼らのうちにいた多くの寄り集まりびとは欲心を起し、イスラエルの人々もまた再び泣いて言った、「ああ、肉が食べたい。 5. われわれは思い起すが、エジプトでは、ただで、魚を食べた。きゅうりも、すいかも、にらも、たまねぎも、そして、にんにくも。 6. しかし、いま、われわれの精根は尽きた。われわれの目の前には、このマナのほか何もない」。 7. マナは、こえんどろの実のようで、色はブドラクの色のようであった。 8. 民は歩きまわって、これを集め、ひきうすでひき、または、うすでつき、かまで煮て、これをもちとした。その味は油菓子の味のようであった。 9. 夜、宿営の露がおりるとき、マナはそれと共に降った。 10. モーセは、民が家ごとに、おのおのその天幕の入口で泣くのを聞いた。そこで主は激しく怒られ、またモーセは不快に思った。 11. そして、モーセは主に言った、「あなたはなぜ、しもべに悪い仕打ちをされるのですか。どうしてわたしはあなたの前に恵みを得ないで、このすべての民の重荷を負わされるのですか。 12. わたしがこのすべての民を、はらんだのですか。わたしがこれを生んだのですか。そうではないのに、あなたはなぜわたしに『養い親が乳児を抱くように、彼らをふところに抱いて、あなたが彼らの先祖たちに誓われた地に行け』と言われるのですか。 13. わたしはどこから肉を獲て、このすべての民に与えることができましょうか。彼らは泣いて、『肉を食べさせよ』とわたしに言っているのです。 14. わたしひとりでは、このすべての民を負うことができません。それはわたしには重過ぎます。 15. もしわたしがあなたの前に恵みを得ますならば、わたしにこのような仕打ちをされるよりは、むしろ、ひと思いに殺し、このうえ苦しみに会わせないでください」。 16. 主はモーセに言われた、「イスラエルの長老たちのうち、民の長老となり、つかさとなるべきことを、あなたが知っている者七十人をわたしのもとに集め、会見の幕屋に連れてきて、そこにあなたと共に立たせなさい。 17. わたしは下って、その所で、あなたと語り、またわたしはあなたの上にある霊を、彼らにも分け与えるであろう。彼らはあなたと共に、民の重荷を負い、あなたが、ただひとりで、それを負うことのないようにするであろう。 18. あなたはまた民に言いなさい、『あなたがたは身を清めて、あすを待ちなさい。あなたがたは肉を食べることができるであろう。あなたがたが泣いて主の耳に、わたしたちは肉が食べたい。エジプトにいた時は良かったと言ったからである。それゆえ、主はあなたがたに肉を与えて食べさせられるであろう。 19. あなたがたがそれを食べるのは、一日や二日や五日や十日や二十日ではなく、 20. 一か月に及び、ついにあなたがたの鼻から出るようになり、あなたがたは、それに飽き果てるであろう。それはあなたがたのうちにおられる主を軽んじて、その前に泣き、なぜ、わたしたちはエジプトから出てきたのだろうと言ったからである』」。 21. モーセは言った、「わたしと共におる民は徒歩の男子だけでも六十万です。ところがあなたは、『わたしは彼らに肉を与えて一か月のあいだ食べさせよう』と言われます。 22. 羊と牛の群れを彼らのためにほふって、彼らを飽きさせるというのですか。海のすべての魚を彼らのために集めて、彼らを飽きさせるというのですか」。 23. 主はモーセに言われた、「主の手は短かろうか。あなたは、いま、わたしの言葉の成るかどうかを見るであろう」。 24. この時モーセは出て、主の言葉を民に告げ、民の長老たち七十人を集めて、幕屋の周囲に立たせた。 25. 主は雲のうちにあって下り、モーセと語られ、モーセの上にある霊を、その七十人の長老たちにも分け与えられた。その霊が彼らの上にとどまった時、彼らは預言した。ただし、その後は重ねて預言しなかった。 26. その時ふたりの者が、宿営にとどまっていたが、ひとりの名はエルダデと言い、ひとりの名はメダデといった。彼らの上にも霊がとどまった。彼らは名をしるされた者であったが、幕屋に行かなかったので、宿営のうちで預言した。 27. 時にひとりの若者が走ってきて、モーセに告げて言った、「エルダデとメダデとが宿営のうちで預言しています」。 28. 若い時からモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは答えて言った、「わが主、モーセよ、彼らをさし止めてください」。 29. モーセは彼に言った、「あなたは、わたしのためを思って、ねたみを起しているのか。主の民がみな預言者となり、主がその霊を彼らに与えられることは、願わしいことだ」。 30. こうしてモーセはイスラエルの長老たちと共に、宿営に引きあげた。 31. さて、主のもとから風が起り、海の向こうから、うずらを運んできて、これを宿営の近くに落した。その落ちた範囲は、宿営の周囲で、こちら側も、おおよそ一日の行程、あちら側も、おおよそ一日の行程、地面から高さおおよそ二キュビトであった。 32. そこで民は立ち上がってその日は終日、その夜は終夜、またその次の日も終日、うずらを集めたが、集める事の最も少ない者も、十ホメルほど集めた。彼らはみな、それを宿営の周囲に広げておいた。 33. その肉がなお、彼らの歯の間にあって食べつくさないうちに、主は民にむかって怒りを発し、主は非常に激しい疫病をもって民を撃たれた。 34. これによって、その所の名はキブロテ・ハッタワと呼ばれた。欲心を起した民を、そこに埋めたからである。 35. キブロテ・ハッタワから、民はハゼロテに進み、ハゼロテにとどまった。
- 마가복음 14장 22절
- 요한복음 6장
- 요한복음 6장 35절
- Mark 10:45 45. 人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」。
- Romans 8:32 32. ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。
感謝は主の手から始まる
- 主の手から始まる感謝
- 分かち合う生活の重要性
今週の説教から作った6日間のディボーションです — 月曜から土曜まで一日ひとつ。
今週の説教から5問。選択肢をタップして答え合わせをしましょう。
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五つのパンと二匹の魚の奇跡で、イエス様がパンを取った後に最初に行った行動は何ですか?
イエス様はパンを取った後、天を仰いで感謝の祈りを捧げました。
アーメン。今日の御言葉はマルコによる福音書6章30節から44節までの言葉です。私たちは今日の本文としてマルコによる福音書6章41節を一緒に読みましょう。始めます。「彼はパン5つと魚2匹を取って天を仰いで感謝の祈りを捧げ、パンを裂いて弟子たちに与え、群衆の前に置かせ、また魚も彼らの前に分け与えられた。」アーメン。さて、始める前に隣の方々と挨拶をしましょう。「私たちは分かち合う人生を送りましょう。」 「私たちは分かち合う人生を送りましょう。」 「もう一度言いましょう。私たちは分かち合う人生を送りましょう。」はい、皆さん。私が突然この挨拶を提案した理由は、説教を聞けば理解できるでしょう。今日私たちが分かち合う御言葉は、五つのパンと二匹の魚の奇跡についてです。私たちがよく聞き、馴染みのある箇所です。教会でよく取り上げられる言葉であり、四つの福音書すべてに記録されるほど重要です。今日はこの馴染みのある箇所を少し異なる視点から見てみたいと思います。今日は41節だけを読みました。41節に集中しながら、イエス様がパンを取り、感謝の祈りを捧げた後、パンを裂いて弟子たちに与えたことを考えたいと思います。この一連の行動の意味を深く考えてみたいと思います。私たちが見落としがちなこの馴染みのある場面の中で、私たちはイエス様が誰であるか、そしてその方が私たちに与えてくださる恵みが何であるかを深く探ることができます。主がすべてを供給し、最終的に自分自身を惜しみなく与えてくださったイエス様の豊かな愛を体験できる時間となることを、主の名によって祈ります。
主の手から始まる感謝
まず、イエス様がパンを取り、天を仰いで感謝の祈りを捧げる場面から始めてみましょう。この場面は、私たちが享受するすべてがイエス様から来ていることを教えてくれます。したがって、信じる者として私たちは感謝の心で受け取るべきです。すべてはイエス様から来ているので、私たちは感謝しなければなりません。41節には、イエス様が五つのパンと二匹の魚を取ったと記されています。ヨハネによる福音書によれば、このパンと魚は一人の子供が持っていたものでした。表面的には、子供が持っていたパンと魚が今やイエス様の手に渡っています。それは子供の手からイエス様の手に移されたのです。少し考えてみてください。その子供も誰かからそのパンと魚を受け取ったことでしょう。そして、そのパンを準備した人と魚を準備した人も誰かから必要な材料を受け取ったことでしょう。今、私たちは一片のパンが私たちの子供の手にどうやって入ったのかを考えてみましょう。種が土に撒かれます。すると雨が降り、日が照ります。それが成長して穀物になります。誰かがそれを収穫し、小麦粉に挽き、こねてパンに焼き上げます。魚も同様です。神が天と地を創造されたとき、この地の海を創造されました。そしてその中に命を与えられました。誰かがその中から魚を捕まえ、準備し、料理して最終的に子供の手に届くようになります。したがって、私たちが「私のもの」と呼ぶすべてのものを追跡していくと、それが私のものになる前に誰かから受け取ったものであるという事実に気づくことになります。しかし、私たちは生活をする中でこのプロセスを当然のこととして受け入れる傾向があります。雨が降ることを当然と思い、種が撒かれて実を結ぶことを当然と思います。しかし聖書はこれらのことが当然ではないと教えています。詩篇104篇には、「彼は牛のために草を生えさせ、人のために野菜を生えさせる」と記されています。ここでの「彼」とは神です。神がそれを成長させ、地から食物を出し、心を楽しませる葡萄酒と顔を輝かせる油、心を強くする食物を与えてくださると述べています。神が与えてくださったのです。また詩篇145篇では「すべての目が主を仰ぎ、主が時に応じて彼らに食物を与えられる」と述べています。これらの節を通して、私たちに食物を与え、私たちが持っているすべてを与えてくださる方は神であることがわかります。神は世界を創造され、遠く離れている方ではなく、今もなおその神が創造された世界を支えておられます。例えば、雨を降らせ、地で食物を育て、私たちが知らないプロセスを通じて実を結ばせ、これらの手段を通じて私たちを養い、衣を与えてくださいます。神が働かなければ、私たちは何も持つことができません。神は私たちが当然と思っている自然のすべての法則を今もなお支えておられます。だからこそ私たちは神の恵みを受けて生きています。では、その子供が持っていたパンと魚は結局誰のものでしたか?それは神のものでした。皆さんはこれを認めますか?はい、それは元々神のものでした。だからダビデは歴代誌29章でこう告白します。「私は誰であり、私の民は誰であって、このように自発的に捧げることができるのでしょうか。すべては主から来たものであり、私たちが主に捧げるのは主の手から来たものを捧げるだけです。」ダビデは主が与えてくださったから私たちは受け取り、感謝の心で再び捧げると告白しています。愛する信徒の皆さん、私たちはしばしば自分の生活の中で神にこのように告白します。「神様、私の時間を捧げます。神様、私の物質を捧げます。神様、私の才能と私の人生を捧げます。」私たちはその方が喜んで受け取ってくださることを祈ります。しかし深く考えてみる必要があります。私たちは自分が捧げたものが自分のものであると言いますが、それが自分のものになる前にすでに誰のものでしたか?それは神に属するものです。神は喜んで自分のものを私たちに委ねてくださいました。では、私たちはこれらのことに対してどう反応すべきでしょうか?私たちは感謝しなければなりません。
分かち合う人生の重要性
さて、この視点から見ると、五つのパンと二匹の魚の奇跡は少し異なって見えるかもしれません。通常、私たちは五つのパンと二匹の魚が5000人を食べさせる奇跡、パンと魚の掛け算、奇跡を行ったイエス様の憐れみに焦点を当てます。私たちはしばしばこれらの部分に集中します。しかし考えてみると、神は私たちの日常の中でも私たちを養ってくださっています。ある意味で、これは私たちが享受しているがあまりにも馴染みすぎて見落としている日常的な奇跡です。種が土に落ちたからといって自然に根を下ろすのが当然でしょうか?私たちはそれが自然なことだと思っています。自然の法則に従って。しかし厳密に言えば、それは当然のことではありません。神が雨を降らせなければなりません。私がダラスに初めて来たとき、人々はいつも私に暑いダラスの夏を経験しなければならないと言いました。そして私の夏は今終わりました。だから彼らは私に尋ねました。「2ヶ月間ほとんど雨が降らず、100度以上になる暑いダラスの夏を経験しましたか?」はい、経験しました。しかし見てください。2ヶ月間ほとんど雨が降りませんでした。このように雨が降らなければ、私たちは雨の大切さを感じませんか?雨が降らないとき、私たちは何を感じますか?雨がこの地に降ることが当然ではないことに気づきませんか?神が天を開かなければ、雨はこの地に降ることができません。そして穀物が育つことも当然ではありません。しかし神がそれを成し遂げてくださいます。私は人間の労働からパンが作られ、食べられるすべてのプロセスが神が私たちに与えてくださる恵みであると信じています。私たちが気づかない瞬間にも、神は私たちの日常の中でさまざまなプロセスを通じて私たちを養い、衣を与えてくださっています。しかし今日の本文の荒野は少し異なります。通常、長い時間と多くのプロセスを経て行われる供給が、イエス様の手の中で即座に行われました。これが重要な点です。私たちは5000人を食べさせたことを奇跡と見ますが、神の視点から見ると、イエス様の手を通じて即座に行われたことは、彼が常に長い時間をかけて行ってきたことです。イエス様は今、自分の手で神の民を養うために常に行ってきたことを行っています。したがって、この奇跡を見るとき、私たちは単にパンがどのように増えたのかを尋ねるべきではありません。パンがどのようにしてそんなに多くの人を食べさせたのかが重要なのではありません。もっと重要なのは、今このパンを提供している方が誰であるかです。子供の手からパンを取り、数多くの人々を満腹にさせた方は誰ですか?その方はイエス様です。したがって、この奇跡はイエス様が創造主であり主権者として、自分の民が必要とするものを供給し、彼が創造したものを彼の意志に従って使用されることを示しています。彼は単にパンを与えるのではありません。パンを与えるイエス様は天と地の創造主です。そして今日でもなお天と地を治める主権者です。彼は私たちにその真理を示しています。だからイエス様がパンを取ったと記されています。彼はパンを取ったのです。旧約聖書では彼が「取った」と表現されています。この節で私たちが最初に考慮すべきことは、子供の献身の前にイエス様の主権があるということです。彼は主が与えたものを再び彼の手で取り、彼の意志を成し遂げるためにそれを取られ、そして豊かに再び与えられました。しかし本文を見ると、イエス様はパンを手に取った後、すぐに裂いて与えられません。彼は何をしますか?はい、一緒に読みましょう。「彼はパン5つと2匹の魚を取り、天を仰いで感謝の祈りを捧げられた。」彼が天を仰いで感謝の祈りを捧げたと記されています。ここで私たちが注目すべき点があります。私たちの韓国語の聖書では、四つの福音書すべてに「感謝の祈りを捧げた」または「祝福した」と表現されています。「祝福する」または「感謝する」と訳されていますが、原語を見るとヨハネによる福音書は少し異なって記されています。私たちが読んでいるマルコによる福音書では「祝福した」という言葉を使っています。彼はそれを祝福されたのです。その言葉を使いながら、ヨハネによる福音書では韓国語訳が「感謝の祈りを捧げた」となっており、英語では「gave thanks」となっていますが、原語では天を仰いで感謝の祈りを捧げる行為を特に「感謝する」という言葉を使っています。イエス様がパンを持って行った祝福の行為は、パンを与えてくださった神を賛美し感謝する深い意味を持っています。さて、これは私たちが以前に見たことと自然に結びつきます。神を信じ従う者にはすべてが彼らから来るということを信じ、受け取ったものを当然のこととせず感謝の心で受け取るべきだということです。イエス様は手にあるパンを見て、それを与えてくださった神を仰ぎ感謝の祈りを捧げられました。しかし荒野でイエス様は神が与えたものを手に取り感謝の祈りを捧げられます。この場面を見て、私たちは自然に旧約の別の荒野を思い出すことができます。それは出エジプト記16章です。出エジプト記16章では、イスラエルの民が神の恵みによってエジプトから出てきます。そして彼らは荒野に入ります。しかし荒野に到着したとき、食べるものが何もありませんでした。そこで彼らが空腹になると、民はモーセとアロンに不平を言い始めます。神が彼らを囚われから救ってくださったにもかかわらず、彼らは待つことができず、食べるものがないという理由で不平を言います。彼らはどのように不平を言ったのでしょうか?イスラエルの民は「私たちがエジプトで主の手に死んでいたらよかったのに!そこで私たちは肉の鍋のそばに座って、食べたいだけ食べていたのに、あなたたちが私たちをこの荒野に引き出して、この全会衆を死なせるのか」と不平を言いました。ちょっと待って、彼らはエジプトでどのような状態だったのでしょうか?彼らは奴隷ではありませんでしたか?奴隷がどのように美味しい食事を食べることができたでしょうか?奴隷が満腹に食べることができるパンや肉があったでしょうか?人間は常に忘れやすい存在のようです。過去を忘れ、現在の困難に集中し、不平と恨みが生まれます。イスラエルの民はつい先ほど起こった神の救いの恵みを忘れ、不平と不満をこぼしました。しかしそれにもかかわらず、神は彼らを見捨てず、天からマナを降らせてくださいました。その荒れ果てた荒野の真ん中で、神は毎日マナを送り、彼らを養ってくださいました。考えてみれば、これは驚くべき出来事ではありませんか?昨日まで何もない荒れ果てた荒野だったのに、朝になるとその荒れ果てた土地が食べることができる豊かなマナで覆われていました。それは一日だけではなく、二日だけでもありません。神は彼らが荒野で40年を過ごす間、ずっと彼らを養ってくださいました。彼らにとって神の奇跡は彼らの日常となりました。しかし私たちは人間の心がどれほど気まぐれであるかを見ます。時間が経つにつれて彼らの心は変わり始めます。最初は荒れ果てた荒野で彼らを養ってくださった感謝の供給でしたが、毎日マナが降り、それを見ているうちにその奇跡はもはや彼らにとって驚くべきものではなくなりました。民数記11章を見ると、彼らはこう不平を言います。「今や私たちは食欲がなくなり、このマナ以外のものは何も見えなくなった!」彼らはマナ以外のものは何も見えないと言います。彼らの態度はどうでしょうか?神がマナを降らせる奇跡を目撃しながらも不平を言う姿はどう思いますか?彼らは命を維持する恵みに慣れすぎて、いつの間にかそれが単なる不平の対象になってしまいました。人間は本当に奇妙な存在のようです。私たちは何かを持っていないとき、こう祈ります。「神様、どうかそれをください。」 「それだけいただければ感謝します。」 「これ以上何も要求しません。」しかし実際にそれを与えられると、私たちはそれを当然のこととし、「神様、これは違います。」 「他のものをください。」と再び言います。与えられたことに対する感謝はどこにもありません。職を得る前、仕事ができるようになる前はどうでしょうか?私たちは「神様、私に職を与えてくださったら、本当に一生懸命に仕えます。」と告白しますが、職を得た後はどうなりますか?朝起きると「神様、これはとても大変です。」 「どうして私にこんなに大変な職を与えたのですか?」 「私たちの会社はどうしてこんなに大変なのですか?」こう不平を言うのが私たちの心の本性です。結婚前には「良い配偶者に出会わせてください。」と祈りませんか?2階から「アーメン」が出ると思ったのに、誰も「アーメン」と言いません。はい、いずれにせよ結婚前には良い配偶者に出会わせてくださいと祈りますが、結婚後はどうなりますか?どうなりますか?現在私たちは結婚学校を運営しており、皆さんは熱心に学び、お互いを知り合っていますが、結婚後はどうでしょうか?>> 良いですか? >> はい。ここで止めます。私たち—皆さんと私、いや、人類—は罪の中で生きる人間は神の恵みを当然のこととしたり、すぐに通り過ぎてしまう悪い習慣があるようです。しかし別の荒野での私たちのイエス様の姿は全く異なります。彼はパンを手に取り、天の神を仰いで感謝の祈りを捧げられます。彼は父が与えてくださったものを受け取り、父に依存し、神の意志を成し遂げるためにそれを使用されます。彼は感謝から始まります。したがって、イエス様の祝福の祈りは単なる感謝の表現ではなく、神の父に対する深い信頼と依存、従順を含んでいます。不足している状況の中で、イエス様は父が与えてくださったものを感謝の心で受け取り、父が供給してくださることを期待し信頼し、神の意志に従われました。愛する信徒の皆さん、私たちがこの地で生きる中で、どれほど頻繁に神の恵みを当然のこととして受け取っているでしょうか?今日目を覚ますことが当然ですか?食べ物があることが当然ですか?ないときだけ気づくのではありませんか?食べ物がないとき、「ああ、そのときは神の恵みだったのだな」と気づくのではありませんか?愛する家族がそばにいることが当然ですか?いいえ。隣にいる人がどんなに苦しめても、彼らがあなたのそばにいるという事実はある面で当然のことではありません。働けること、礼拝できること、そしてあなたがここにいること—どの面でも最初から何も当然のことではありません。私は私が持っているすべてが神から受け取ったものであると信じています。すべてが神の恵みであると信じています。>> アーメン。 >> 私たちが持っているすべてが私たちが信じる主から来ていることを知り、当然のこととせず感謝の心で受け取るとき、初めて恵みが私たちの生活を支配し始めます。主の恵みに常に感謝し、神の支配のもとで生きることを主の名によって祈ります。>> アーメン。
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